第9話 / 新世界へ

宿に向かうまで何をして過ごすかしばらく思案した後、せっかくだから吉本新喜劇を見に行こうということになった。相変わらず大体の方角に歩く私たちだったが、運良くとくに迷うこともなくグランド花月にたどりついた。そこで公演時間を確認すると、昼の公演があと30分ほどで始まるらしい。これは良いタイミングだと思ったのだが、公演の内容を確認するとお昼は漫才とコントのたぐいだけで、肝心の新喜劇はやっていないことがわかった。そこでもう一度どうするかを話し合った結果、吉本はまた次の機会に譲るとして、ほかの場所に行くことにした。

私たちが次の目的地に選んだのは通天閣だった。初めて行く通天閣ヘの期待が大きかったためか、このときの深谷さんのそぶりの微妙な変化に気がつく者はいなかった。私たちはすでに飽きるほど見てきた「金龍ラーメン」の看板のそばの入り口から地下鉄の駅に入り天王寺へと向かった。そして難波から2駅、動物園前で下車し、通天閣の場所を探した。探すといっても通天閣自体が巨大なランドマークであるから、いやでも目に止まる。通天閣が見える方向へと5人はぞろぞろと歩きはじめた。

地下鉄の駅から通天閣あたりを新世界というらしい。以前この「優駿通信」でマチカネの馬の名前を紹介したとき、マチカネシンセカイという馬がいたことを覚えているだろうか。あのときはクラシック音楽シリーズということで、ドボルザークの交響曲に由来するとしていたが、馬主さんは大阪の人だし、本当の由来は案外こちらの新世界だったのかもしれない。いくつかの角を曲がると、目の前に通天閣がそびえ立っていた。通天閣の入り口を入ると「2階」へのエレベータがあった。ずいぶんたくさんの人が待っていたので、私たちはすぐ脇にあった階段を登ろうとしたのだが、そのとき私たちを呼び止める声がした。

第10話 / 「2階」

「もしもし」。声のする方に振り向くと、エレベータ待ちの人を整理する係とおぼしき人が私たちに話しかけてきた。「2階まで階段では遠いですからエレベータをご利用ください」。「2階が遠い」とはどういう意味か解しかねたが、とくに急がなければならない理由もなかったのでエレベータを待つことにした。

待っている人が多かったので、次のエレベータには乗れないかもしれないと思っていたが、エレベータには意外と多くの人が乗れ、5人全員があっさりと次のエレベータに乗ることができた。エレベータは見るからに古く、しかし頑丈そうなひと昔もふた昔も前のタイプで、その重そうな見かけ通りゆっくりと上昇していった。そのためであろうか、「2階」までの到着の時間がずいぶん長く感じられた。やがてエレベータが「2階」に着き、私たちがエレベータを降りて周囲を見渡したとき、係の人がエレベータを使うように言ったこと、「2階」に到着するまで時間がかかったことへの疑問は氷解した。通天閣の「2階」は付近の雑居ビルをはるかに見おろす高さにあったのだ。確かに入口からここまで何があるわけではないから「2階」といえば「2階」なのだろうが、もう少し呼びようがあるだろうに、とこれには苦笑するほかなかった。

ここからさらに上にある展望台に上がるにはお金を払わなければいけないらしい。そこで私たちは入場券の売り場にできた列の後ろに並ぼうとした。そのときかすかにうわずった声が私たちを呼び止めた。

第11話 / 攻防

「ちょっと…」。見ると声の主は深谷さんだった。「俺はここにいるから…」。すると間髪入れず小木曽さんが尋ねる。「あれ、深谷さん、高いところ駄目なの?」。「いや、そういうわけじゃないんだけれど…」。深谷さんは平静を装うが、いかんせん声のトーンも表情もいつもと違う。相手の弱点を握った喜びを隠しきれないといった感じの笑顔で小木曽さんは続ける。「深谷さん、高いところ駄目なの。ほんとうに高いところが駄目なんじゃあ、上にのぼらん方がいいかもしれんねえ」。自らの優位をかみしめるかのような口調だ。

「いや、高いところは別にかまわないんだけどね…」。深谷さんはなおも抵抗を試みる。しかしこの場での小木曽さんの優位は誰の目にも明らかだ。だがそこは深谷さんも承知のこと。小木曽さんにそれ以上の追撃の暇をあたえず、「じゃあ、俺はそこでオリンピックでも見てるから」と言い残して、その場を離れてしまった。そのすばやさにあっけにとられる私たちを背に、深谷さんは自動販売機でジュースを買い、「2階」の中央に置いてあるテレビの前にすわってしまった。ここであわてた素振りを見せては負けとばかりに、ことさらゆっくりとした動きで。

人生の先輩たる二人のこの攻防を前にして、斎藤さん、山本君、そして私の三人は、何もすることができなかった。相手の弱点を見るや攻撃をたたみかける小木曽さん。そしてそれをきわどくかわす深谷さん。両者の息づまる駆け引きは我々三人に、まだ人生に学ぶべきことが多いことを感じさせた。

第12話 / 模型

結局、深谷さんを残して4人が展望台までのぼることにした。料金500円を払うと、係の人がパンフレットをくれた。ただしなぜか二人に一部だ。通天閣の説明でもしてあるかと中を開いてみると、切り取って組み立てると通天閣の模型ができるというとぼけた代物だった。

こんなものを喜ぶ者などいやしないと山本君と笑いあっていたら、後ろの親子とおぼしき二人づれの会話が聞こえてきた。お父さんが小さな子供にそのパンフレットを見せてさかんに、こう作れば通天閣ができるんだよ、などと説明している様子。でも子供の方は乗り気でないのか生返事を返すだけ。それはそうだろう。子供だましというのが子供に失礼なくらいちゃちなつくりなのだから。

自分にとっておもしろくないものでも子供だったら喜ぶなどと考え出すのはいつからだろうか。後ろの親子のやりとりを聞きながら、この思い上がりは自分自身にも思いあたるところがないではないと自戒する私であった。そうするうちに展望台にのぼるエレベータがやってきて、私たちはその中へと乗り込んだ。

第13話 / 展望台

展望台へのエレベータもずいぶんと時代を感じさせるものだった。外の風景を見ることができ、それにあわせてテープレコーダから説明が流れるというエレベータは、できた当初は画期的なものだったのだろう。だが今となっては眺望の狭さや音の悪さが目立つばかりで、おそらく景色を楽しむために設定したと思われるゆっくりとした上昇の速度はいたずらに乗客の気分をいらだたせるばかりであった。基本的な機能を軽視して作られたものは、技術の進歩とともに醜悪な姿をさらすことになる。

展望台は思った以上に狭く、人の多さとあいまってかなりの窮屈さを覚える。見晴らしは悪くはないが、さりとて驚くほどのものではない。こういう場ではおなじみの有料の望遠鏡、通天閣を説明する色褪せたパネル、どこの観光地に行っても同じものが置いてあるみやげもの屋などを一通り目にして退屈するまでに大した時間はかからなかった。売店でジュースを買った斎藤さんは店の女の子がかわいかったと喜んでいたが。

そんなわけで展望台には長居することもなく、再び「2階」へと降りることにした。上があの程度のものなら深谷さんの選択は正解だったかもしれない。ただ深谷さんが下に残っていてくれたおかげで、私たちもこの後に少しばかり愉快な光景を目にすることができた。

第14話 / 拙速

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| +----+                    |
| | TV |                    |
| +----+                    |
| 深谷さん    +----------+  |
|             | 展望台へ |  |
|             +----------+  |
|  +--------+     A  |      |
|  | 入場券 |     |  +------+
|  +--------+     |小木曽さん
|     A  |        |
+--+  |  +--------+
   |  |(順路)
   V  |
 +-------+
 | 1階へ |
 +-------+

「2階」に着いてエレベータを降りると、目の前に「お帰りの方は左側にまわってください」と書いた案内板があった。左側というと来たときとは逆の方向だから、そのまま行くと「2階」に残っている深谷さんとはぐれてしまわないだろうか。私の頭の中をそんな不安がよぎった。でも1階と「2階」を結ぶエレベータはひとつしかなかったはずだから…、とさらに考えをめぐらせているあいだに、行動力あふれる小木曽さんはもう動きだしていた。

「おおい、深谷さん、こっちこっち!」。私たちばかりでなく周りの人も振り返るくらいの声で深谷さんに呼びかけた。もちろんそうしないと深谷さんに聞こえるわけもないが、
周囲の反応が少し気になった。小木曽さんの行為はどうやら人々の笑いを誘ったようだが、その理由は声の大きさばかりではなさそうだ。

とにかく深谷さんが私たちのところまで来て、5人は案内板のいう方向へと歩き始めた。するとすぐに人々の反応の理由がわかった。なんのことはない、案内板は、私たちが「2階」にのぼってきたところに、展望台へのエレベータの後ろをまわって戻ることを指示するだけのものであって、下に降りるのに別の通路があるわけではなかったのだ。当然、その通り道に深谷さんもいたわけで、何もエレベータを降りたところで深谷さんを呼ばなくても良かったのである。

このことに気がついて、私たちは思わず顔を見合わせて笑いだした。小木曽さんの行動は拙速といえば拙速だが、しかし間違った行為ではない。速すぎるための失敗は今回のように笑い話ですむが、遅すぎるための失敗はそれではすまないことが多い。小木曽さんのような人が一緒だと、大きな安心といくらかの笑いとともに行動することができる。

第15話 / ガイドブック

通天閣を出た私たちは次にどこに行くかを話し合った。斎藤さんが美術館、動物園、四天王寺などの候補をあげるが、中途半端な時間だけにどれもしっくりとこない。「四天王寺って何があるの」とは小木曽さん。「四天王があるんだよ」と斎藤さん。こんな間の抜けた会話をしながら時間が過ぎていく。

そのうち何を思ったのか小木曽さん、ストリップを見に行こうと言い始めた。「それは構わないけど、ここらにストリップやっているところなんてないんじゃない」と斎藤さん。「そんなはずないよ。だってガイドブックに書いてあったもん」。小木曽さん、反論にも気合が入っている。「でもここまで歩いてくるあいだにそんなものなかったでしょ」。斎藤さんが再び切り返しても、「いや、ガイドブックに書いてあるんだから、きっとどこかにあるはずだよ」と頑張る。そこまでいうのなら少しこの辺りを歩いてみようということになって、5人が動きだした。

だが目につくのは映画館ばかりでなかなか目的のものが見当たらない。「やっぱりないんだよ」。そう斎藤さんがつぶやいたとき、小木曽さんが声をあげた。「あった、あった。ほら、あそこ」。見ると、なるほどそれらしい建物がある。「ほらね、ガイドブックにちゃんと書いてあったんだから」。勝ち誇ったように小木曽さんは言い、弾む足取りでそちらに歩きはじめた。

第16話 / 錯誤

意気揚々と歩く小木曽さんの後をほかの4人が追いかけていく。やがて問題の建物が近くに見えてくると、小木曽さんの足取りが少し重くなってきた。どうもそれはお目当てのものとは違っていたようだ。さらに近づいてみると、その建物もやはり映画館であることがわかった。

「おかしいなあ」。さかんに首をひねる小木曽さん。「確かに書いてあったんだけどなあ。このあたりはそれが有名ですって」。そこで小木曽さんは件のガイドブックをバッグの中から取りだし、その記述を捜し始めた。ところがそのようなことはガイドブックのどこを捜しても書かれていない。通天閣周辺は数多くの映画館があることで有名、と書いてあるだけだった。

「映画館って書いてあるのを勘違いしたんじゃない」。こう斎藤さんに言われると、小木曽さんは先ほどとは打って変わって自信なさそうに、「うーん、そうかなあ。でも…」とはっきりしない言葉を並べるばかり。結局、これは小木曽さんの単なる思い違いということで決着した。まあこうした思い違いをすること自体は珍しい話ではないし、一度思い込んでしまうとなかなか間違いに気がつかないという覚えは誰しも経験のあるところだろう。ただなにゆえに小木曽さんがその二つを取り違えてしまったかは、小木曽さん以外知る由もない。

第17話 / ジャンジャン横丁

肩を落とす小木曽さんを励ましながら進む5人の前に動物園の方向を示す看板があった。向こうに行けば動物園があるのか、とは思ったものの、いまさらそちらに行く気にもなれない。そんな私たちの目に止まったのが、動物園とは逆の方向にある薄暗い、まるで洞窟のような通りであった。私たちは魅入られたようにその通りに入っていった。

まだ日も高いというのに通りの中は真っ暗で、両側の建物から漏れる明かりで道がわかるという具合だった。通りには小汚い飲み屋・雀荘・碁会所などがところせましと並ぶ。驚いたのはこの時間にどの場所にもかなりの人が入っていることだ。しかし中の人たちの様子に決して不自然さはない。おそらく中の人たちにとっての日常がそこにあるのだろう。一日中光の届かないこの通りでは、何曜日の何時であろうとこれと同じ風景を見ることができる。そんな気がする。

私たちが日常の中でいつも意識しなければならない時間という存在はここにはない。ここは私たちが持つ座標軸のひとつを欠いた、まさに異次元の空間なのである。だから居心地はよくない、でもどこかそれを楽しんでいるという不思議な感覚を味わいながら歩いていく。

いったいどれほど歩いただろうか。やがて前方に光が見えてきて、私たちは再び時間とともに生きていく世界へと引き戻された。もう少しあの感覚を楽しみたかったという気もしたが、しかし現実は現実でまた楽しい。そう思わせる風景が私たちの目の前にあった。

第18話 / 露店

ジャンジャン横丁という名の亜空間を抜け出た私たちは、そのまま地下鉄の駅に向かうことにしたのだが、そこでやたらと目についたのが露店である。露店といっても多くは地べたにそのまま品物を並べているだけのもので、商品を置く台などを用意しているところは少ない。売物は、どこで拾ってきたのかというような「アクションカメラ」という雑誌を一冊だけポンと置いて座っているオヤジは別格にしても、どこもそのへんの粗大ごみ置場の方がよほどまともなものがありそうだという感じで、いったいここでどんな取り引きが行われているのか想像もできない。もっとも値段の方も300円の背広をはじめ、だまされたと思って払って本当にだまされたとしても惜しくない程度なので、話のネタに買う人がいるのかもしれない。先日、「パワーダービー」という5分で遊ぶ気をなくすクソゲーに7,000円も払ってしまった私は、その思いをいっそう強くする。

おかしなのは露店ばかりではない。まともな構えをした普通の店も少し変だ。どうやら同じ人が経営していると思われる同じ名前の喫茶店が3軒並んでいて、そんなに繁盛しているのかと中を見てみると3軒ともがらがらだったり、そうかと思うと、決して古本屋ではなく一応新刊を扱う本屋であるにもかかわらず、何ヶ月も前の雑誌を堂々と並べている店があったりと、どうもこのあたりにもジャンジャン横丁の作り出す空間のゆがみが及んでいるようだ。このままここにいては通常の感覚が失われる。そんな不安が頭をよぎったとき地下鉄の駅の入口が見えた。私たちはそそくさと駅の中へと入っていった。