第19話 / 諦観

私たちは動物園前から再び御堂筋線に乗って、今度は梅田へと向かった。朝からさまざまな出来事と遭遇してきたためか、さすがにみんなの表情にも疲れが見える。地下鉄の車内では比較的口数少ないまま梅田に到着した。 梅田に着くともう待ち切れないという様子で深谷さんが競馬専門紙を購入する。それを見て小木曽さん、「そうだなあ。ここで買っておいた方がいいかもしれんねえ。宝塚みたいな田舎には売ってないかもしれんし」などと、宝塚の人が聞くと気を悪くしそうなことを言う。昨年の6月に宝塚に来ている山本君が「大丈夫ですよ。去年来たときちゃんと売ってましたから」と言っているのに、「そうか。でもあそこは本当に何もないところだから」と自分の古い記憶を譲ろうとしない。しかし結局は梅田では専門紙を買わず、そのまま宝塚行きの阪急電車に乗り込んだ。

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第20話 / 休息

宝塚に向かう電車の中で、私たちは深谷さんの買ってきた専門紙をもとにした翌日の予想、宝塚歌劇に対するイメージ、宿泊予定の碧山荘の小木曽さんご推薦の鍋料理への期待など、とりとめもなく語り合っていた。しかし次第にみんなの口数が少なくなっていき、やがて話に参加する者が一人二人と減っていった。 深谷さんと専門紙をはさんで競馬の話をしていた私はそのことをさほど気にもとめなかったが、ふと回りを見まわすとみんな眠っている。これに気づいた深谷さんと、みんな疲れたんだね、と笑い合ったが、そのうち私にも心地好い眠気がやってきて、からだの求めるまま眠りに入った。 私が目覚めたとき、電車は宝塚の2つ前の駅を出たところだった。まわりではまだみんな眠ったままだ。どうせ宝塚は終点だから乗り過ごすことはないと安心しているのだろうか。まあ良いかと思って前を見ると、斜め向かいのシートに女子校生が2人座っていて、こちらを見て笑っていた。なるほどいかにも遠方からやってきたという風情の男ばかりの5人組が一列に並んで舟を漕いでいる姿は滑稽であろう。なぜか急に気恥ずかしくなってまた顔を赤くする私であった。

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第21話 / こだわり

阪急宝塚駅は高架工事に伴って比較的最近建て直されているため、構内は非常にきれいだ。ただ、そういう時間帯のためなのだろうか、やけに人が少なく、全体的にがらんとした印象を受ける。 電車を降りた私たちは競馬専門紙を買うため改札を出たところにある売店に向った。売店には一通りの専門紙が並んでいたので、各々が別々の専門紙を買うことにした。そこで私はいつも買っている「競馬ブック」ではなくて、多色刷りで派手さだけが売りの「競馬エイト」を買った。ほかの人も思い思いの専門紙を購入したようだ。 そう思っていたら、小木曽さんが店の人と何やらやり取りしている。「え、『競馬ファン』、ないんですか。じゃあ、いいです」。こう言われた売店のおばさんは、「競馬ファン」とはどこぞの専門紙だ、という怪訝な顔をし、一方の小木曽さんは、やっぱり宝塚は田舎だわ、と言わんばかりの表情をしている。二人の認識の違いは、実は単に文化圏の違いに起因するもので、どちらに優劣があるわけではない。こういうやり取りを客観的に見ることができるとなかなか楽しい。

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第22話 / 碧山荘

昨年碧山荘に宿泊している山本君が、その碧山荘が見えたと言って指を差した。碧山荘は古い造りの建物で、前に建っている宝塚グランドホテルとの対照によって古さがいっそう際立つ。「あれがそうなの」。斎藤さんが驚いたように言う。「いや、昔の知多会館よりずっとまともだよね」と、深谷さんが本人以外ピンと来ないたとえを持ち出す。昔の知多会館のことはわからないが、確かに造りこそ古いものの建物自体は手入れが行き届いているのかきれいだった。 門のところにインターホンがあり、そこで一度断ってから中に入らなければならないかとも思ったが、まあ別に良いだろうということでそのまま玄関に進んだ。「場所が宝塚だけに、『♪いらっしゃいまーせー』とか言って歌いながら迎えてくれるかもしれない」と斎藤さん。実は斎藤さん、宝塚に着いてからずっとこの調子で、何かにつけて節をつけて歌い出す。ひょっとすると今回のツアーにも、阪神競馬より最初冗談まじりに言っていた宝塚歌劇の方を見たくて乗ってきたのかもしれない。

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第23話 / 経験

お風呂に入る支度をしながら「和泉さん、まだ来ていないみたいですね」と山本君。「遅れて来るのはかまわないけど、いつ頃になるかくらい連絡すればいいのに」と斎藤さんが言う。すると小木曽さんが追い打ちをかける。「まったく彼は団体行動ができないんだから」。 ところがその小木曽さんが突然、「みんな、先にお風呂に入ってていいよ。僕はもう少し『競馬ファン』を捜してくるから」と言い残し、そのまま宿から出ていってしまった。その突然の行動にしばらくあっけにとられていた私たちだが、やがて誰からともなくお風呂の方へと向かっていった。 碧山荘のお風呂は離れにあって、渡り廊下を通るとき向かいのグランドホテルが正面に見える。おそらく向こうからもここが見えるのだろうなと思うと、なぜか急ぎ足になってしまう。湯舟は3人がつかれる程度の大きさで、決して大きくはないが、寮の風呂に比べるとさすがにきれいだ。 最初に湯舟につかろうとした斎藤さん、足を入れるが早いかいきなり声を上げた。「熱い」。私もお湯に手をひたしてみるが、なるほどこれは熱い。そこで深谷さんと私は先に体を洗い、斎藤さんはというと、水道の蛇口を全開にしてそのそばに恐る恐る体をつけていく。

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第24話 / 静寂

お風呂から上がった私たちは、最初はお茶をすすりながら雑談していたものの、翌日の競馬がやはり気になる。各々が買ってきた専門紙を取り出しレースの検討に入っていく。みなの表情も次第に真剣になっていき、やがて静寂が私たちの部屋を支配した。 その静寂を破ったのは小木曽さんだった。「やっぱり『競馬ファン』はなかったわ」。そう言いながら部屋の中に入ってきた。「どうして置いていないのかなあ。白木さんの予想は本当によく当たるのになあ。やっぱり宝塚にはないのか...」。どうしてもその専門紙があきらめきれない様子で、手に入れられなかった不満は宝塚の町の方に向けられているようだ。しかし行動は相変わらず素早い。「じゃあ僕はお風呂に入ってくるから」。私たちに声をかける暇すら与えず再び部屋から出ていった。部屋にはまた静寂が訪れた。 「お食事の用意は何時頃にしましょうか」。今度は宿のおばさんの声で静寂が破られた。「あらあら、みなさん明日は競馬に行かれるんですか」。部屋に入ってきたおばさんはそう言いながら笑った。なるほど全員が黙って競馬専門紙をのぞき込んでいる姿は、端から見ればかなり異様だろう。「本当は宝塚歌劇を見たかったんですけどね」と斎藤さんが言うと、おばさんはさらに大きな声で笑い出した。私たちの姿はよほど宝塚歌劇のイメージにそぐわないらしい。おばさんの反応に私たちはただ苦笑するほかなかった。

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第25話 / 欠席裁判

「食事は5時半でいいですかね」。おばさんが話を元に戻す。「もう一人がいつ来るかはっきりしないんだけど、とりあえずそれでいいです」。斎藤さんがそう答えると、おばさんはうなずいて出ていった。するとそれと入れ替わるように小木曽さんがお風呂から帰ってきた。 「食事は5時半て言っといたけど、いいよね」と斎藤さん。「ああ、いいよ」。小木曽さんが答える。「和泉がどうなるかわからないけど」。「和泉君かあ。彼は団体行動ができんのだ。いつでもすぐ統制を乱すんだから」。 そして5時半になっても、予想通りというか、和泉さんは来なかった。すでに肉や野菜がテーブルに並べられていたが、もう少し待つことにした。部屋には暖房が入っているのでかなり暖かい。まだ食べないのなら肉を縁側に出しておいた方が良いとおばさんに言われ、私たちはそれにしたがった。

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第26話 / すき焼き

「このまま待っていても仕方ないから食べよう。和泉もそのうち来るだろう」。30分ほど待ってから斎藤さんがこう言うと、みんなそのきっかけを待ってたという感じで同意した。 碧山荘の夕食は小木曽さんご推薦のすき焼きだ。用意された鍋はふたつで、ひとつを深谷さん、小木曽さん、私、もうひとつを斎藤さん、山本君で囲んだ。この組み合せは絶妙というか何というか、見事に対照的な鍋を出現させた。 ふだん家でやっているという山本君と、鍋の美学を追求する斎藤さんが作る美しいすき焼き。一方、不器用でしかも大雑把な私と、後のことを考えるよりも先に動いてしまう小木曽さん、それに一見冷静なようで実は衝動的な部分を持つ深谷さんが作る不細工なすき焼き。同じ素材からかくも大きな差が生まれるものなのかと奇妙な感動を覚えるほどであった。 「なに、味は変わりはしないよ」とは深谷さんの言。確かに、空腹をこらえていたためか、あるいは素材が良かったからか、いい加減に作ったわりにはおいしく食べられた。しかし和泉さんの食べる分を見込んで頼んでいた肉の量を平らげることは容易ではない。最初はおいしく食べていたのだが、やがて残っている肉の量に嫌気がさしはじめる。

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第27話 / 登場

「来た来た、来ましたよ」。部屋に入ってくるなりおばさんがこう言った。見ると後ろから和泉さんが笑いながら入ってきた。「いやあ、どうもすいません。みなさん、もうご飯食べられました」。和泉さんとは今朝電話で話しているはずなのだが、和泉さんの例の口調が妙に懐かしく聞こえる。「当り前だよ。ほら、そこに和泉の分を残しておいたから、全部食べろよ」。そう言って斎藤さんは私たちが食べ残した肉を指さした。「わあ、どうもすいません」。いつものように笑いながら答える和泉さん。和泉さんのいつも通りの振る舞いは、知多を出てきたことが遠い過去のように感じていた私たちの感覚を、少しばかり引き戻したように思える。 そのためだろうか、それまで特に気にならなかったその日一日の疲れを覚えるようになった。和泉さんは残った肉をあっさりと平らげてお風呂に行った。残ったメンバーはお酒を飲みながらテレビをぼーっと見て、とりとめのない話をしている。かといって退屈なわけではない。みんな心地好い疲労感を楽しんでいるかのようだ。やがて和泉さんが戻ってきたが、状況に大きな変化はなかった。その心地好さが本当の疲れに変わらないうちに寝てしまおうと考えることは自然な流れであろう。私たちは部屋を片づけて眠りにつく準備を始めることにした。

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第28話 / 就寝

私たちがそれまでいた部屋に6人寝るのは狭いだろうということで、もうひと部屋が私たちに用意されていた。そこでふた部屋に4人・2人に分かれて寝ることになったのだが、問題はその分かれ方である。「それじゃあ深谷さん、年寄り二人が向こうで寝ますか」と小木曽さん。すかさず斎藤さんが言う。「ちょっと待ってよ。俺は和泉と寝るのはいやだよ。小木曽さん、向こう行くんだったら、和泉も連れてってよ」。「ええっ、和泉君と二人きりだと襲われてしまうかもしれん」。「ちょっと、何でですか。一緒に寝ましょうよ、小木曽さん、斎藤さん」と、やはりいつものように笑いながら和泉さんが言う。「だってお前、寝てると抱きついてくるじゃん」。「そんなことないですよ」。 この後、多少のやりとりがあって小木曽さん、「やっぱり年寄り二人が向こうに行くわ」と言い残し、深谷さんと一緒にしれっと部屋を出ていってしまった。残された4人は仕方がないといった感じで顔を見合わせ、そして布団を敷きはじめた。「俺は和泉と顔を合わせんのいやだから、壁を向いて寝るよ」。斎藤さんは真っ先にそう言うと、一番端っこを占領して本当に壁の方を向いてしまった。おやおやと思って反対の方を見ると、こちら側の端っこは山本君がすでに押さえている。和泉さんと私はそのあいだに並んで寝ることになった。

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