第39話 / 懐顧

モニタの前に立った私は最初にどのレースを見るかを思案した後、私が競馬の世界にひきこまれるきっかけとなったレースを選んだ。ミスターシービーが3コーナーから豪快なまくりを決めた菊花賞である。

見たいレースを指定してからレースの実況が始まるまで少し時間がかかる。このあいだ、ほかの人が何をしているのか見てみると、みんな思い思いにこの場を楽しんでいるようだ。競馬グッズに見入る山本君、小木曽さん。共同馬主クラブのパンフレットを広げる和泉さん。競馬の資料を丹念に読んでいく深谷さん。それぞれの競馬に対する姿勢を表しているようでなかなかおもしろい。

そう思っていると斎藤さんがこちらにやってきた。ミスターシービーのレースを見終ると、斎藤さんは次々に、こんなレースはないか、とリクエストしてくる。まずは最初から最後までぶっちぎりの圧勝ということで、テスコガビーが勝ったときの桜花賞。次のリクエストは派手な追い込みで圧勝したレース。そこでサッカーボーイが勝った阪神3歳ステークス。今度は笑う馬が見たいというので、ダイタクヘリオスのマイルチャンピオンシップ。落馬シーンが見たいということで、メジロデュレンの有馬記念(落馬したのはメリーナイス)。ついでにロンシャンボーイが勝った昨年の京阪杯(空馬のワイドバトルが一番最初にゴール板を駆け抜けた)。

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第40話 / ポスター

いくら楽しくても、お昼が近くなるとさすがに空腹を覚える。6人が自然に集まり、ちゃやまちアプローズを後にして食事に行くことが決まった。広報センターを出てふと見ると、小木曽さんと山本君が昨年の春の天皇賞のポスターを手にしている。「あれ、それ買ったの」。斎藤さんがすかさず尋ねる。「いや、これがただなんだわ」。小木曽さんが答える。「山本君が目ざとく見つけてくれてねえ」。「何か買おうかなと思っていたら、無料ですって書いてあったんですよ」。山本君が得意気にいう。小木曽さんもごひいきのライスシャワーの雄姿に満足そうだ。「パーマー、マックイーンが写っていなかったらもっと良かったのに」などと不平を漏らしながらも、表情にはいささかの曇りもない。ほかの4人は素直に羨望の眼差しを向け、2人が素直に喜ぶ。これはなかなか良い。

私たちはアプローズタワーを出て、ふたたび梅田駅に向かった。これから名古屋に帰るまで、難波辺りで遊んでいようということになり、地下鉄の駅を捜したのだがこれがなかなか見つからない。しばらくうろうろした後、ようやく御堂筋線の案内板を見つけ、何とか地下鉄の改札にたどり着いた。

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第41話 / 自信

地下鉄御堂筋線の改札口の向かいには阪神百貨店の入口がある。それを見た小木曽さん、「そうそう、阪神百貨店の地下のいか焼きがうまいんだわ」と思い出したように言う。これを聞き逃す和泉さんではない。ほとんど瞬時に反応する。「そうなんですか。じゃあ食べに行きましょうよ」。「え、行くの。本当に行くんだったら場所知ってるから案内するよ。みんなどうします」。何だかんだ言っても、やはりこの二人には波長がぴたりとあうところがあるらしい。ほかの人たちもかなり空腹を感じていたところだから、いか焼きを食べることに異存はなく、小木曽さんの先導について阪神百貨店の中に入っていった。

中に入っても小木曽さんは目的地に向かってずんずん進んでいく。「知っている」というだけあって自信にあふれた足取りだ。ところがその足取りが急に重くなり、ついにはぴたりと止まってしまった。どうしたのかと思って小木曽さんを見ると、さかんに首をかしげて言う。「おかしいなあ。確かこの辺だったんだけどなあ」。だが周囲にはそれらしい店はなく、その先には行き止まりが見えている。

「そこに案内板がありますよ」。山本君が指を差す方向に店内の案内図があった。「あ、何だ。向こうの方だったのか。今度は大丈夫」。案内板を見てこう言うと、小木曽さんはふたたびずんずん歩きはじめた。

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第42話 / 拙速ふたたび

案内図の示す方向にずんずん進む小木曽さんの足がふたたび止まる。前にはガラスの扉。その先には上へとのぼる階段が見える。周りを見てもやはりいか焼きを売っているらしい店は見あたらない。「おかしいなあ。案内の通り来たはずだけど」。もう一度首をひねる小木曽さん。「人に聞いた方が早そうだね」と斎藤さん。「じゃあ、そうしましょう」。和泉さんはこう言うが早いか、もう近くのお店のおばさんにいか焼きの店の場所を尋ねていた。

おばさんの話を聞いて、小木曽さんの歩く方向が間違っていたわけでも、案内図に嘘があったわけでもないことがわかった。実は扉の向こうに見える階段の手前に細い通路があり、そこを入ったところにいか焼きの店があるのだ。おそらく案内図にはそのことがきちんと書かれていたのだろうが、私たちは大体の位置を確認しただけで動き出したので、あと一歩のところで足踏みをしてしまったわけだ。通天閣での一件を思い出させる出来事だ。

狭い通路にはいか焼きを買う人の列ができていた。6人がここに並んでも仕方がないので、斎藤さんと山本君が列に並び、ほかの4人は少し離れたところで待つことにした。ところがふと見ると和泉さんがいない。そして小木曽さんが言う。「ほんっと彼は団体行動がだめだな」。

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第43話 / いか焼き

店の前の行列は短くなかったが、進み具合が速いのだろう。思ったほど待つこともなく、斎藤さんと山本君がいか焼きを手にして戻ってきた。だが依然として和泉さんの姿は見えない。「まったく彼はいつもこうなんだから」。例の調子で小木曽さんが言う。「いないんなら、和泉の分食っちゃおうぜ」。斎藤さんがこう言ったとき、和泉さんが姿を現した。「あ、みなさん待ってました?どうもすみません」。そう言いながらも、和泉さんはさっさといか焼きを手にして食べはじめた。これを見てほかの人もやれやれという感じでいか焼きを食べる。

いか焼きは要するにたこ焼きのたこがいかに変わったのもだが、ただ両者の形状はかなり違う。いか焼きはたこ焼きように球状ではなく、お好み焼きのように平たく焼いてあるのだ。いか焼きを食べてみるとこれがおいしい。金龍ラーメンでは前評判があてにならないことを感じたが、こちらの方はなるほど行列ができるだけのことはある。いか焼きを食べ終わった和泉さん、「みなさん、もうひとつ食べませんか。僕が並んできますから」。よほどこのいか焼きが気に入ったらしい。しかしみんなのおなかも少し落ち着いたし、深谷さんも馬券の払い戻しが気になるということで、WINSのある難波に向かうことになった。

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第44話 / お好み焼き

難波に着いたらお好み焼きでも食べようと話しながら私たちは地下鉄に乗った。お好み焼きといえば、私は広島の出身であるがゆえに多少のこだわりを持っている。ご存じの通り、広島のお好み焼きと関西のそれとではずいぶん違う。別にどちらがおいしいというつもりはないが、広島のお好み焼きがまがいもの扱いされるのは不愉快だ。ましてモダン焼きと同一視するなど論外である。もっともこの大阪で広島風のお好み焼きを求めることは、いわばパリで中華料理を求めるに等しい。それは限りなく不可能に近いし、また無粋というものだ。料理の仕方はどうあれ、おいしいものはおいしいのだから。

そんなことを考えていたら、あっという間に難波に着いてしまった。駅を出ると昨日見たばかりの風景が広がっている。が、なぜかこれがなつかしい。昨日からの出来事は、日常の生活でのそれとは密度が違い過ぎているのだろうか。ともあれ私たちはお好み焼きの店を探して、昨日歩いた難波界隈をふたたび歩き始めた。

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第45話 / 対照

広島もそうだが、大阪でもやはりお好み焼き屋は多いようで、あちこちでお好み焼き屋ののれんを目にする。しかし時間がちょうど昼時ということもあって、どの店も満員だ。どうしたものかと思っていると、妙に目立たないところに入口のある店が目に止まった。あるいはここならばと考えてその店の前に行ってみる。店の前にはお好み焼きのサンプルが並んでいるが、これがやたらと小さい。本当にこんなに小さいのか見てみたかったのだが、中をのぞいてみるとここも超満員。残念ながらこの店もあきらめるほかなさそうだ。

そう思ってお好み焼き屋の向かいに目を転じると、「本格インドカレー」を名乗る店があった。昨日は自由軒のカレーを食べ損ねているし、カレーを食べるのもいいかもしれない。私たちはそう考えてそのカレー屋へと足を進めた。ところが中を見てみると、前のお好み焼き屋とは対照的に客が一人として入っていない。ほかの店では行列さえできているというのにこの状態というのはあまりにも怪しすぎる。いくらすいていてもそのカレー屋に入る勇気はなく、私たちはお好み焼き屋を求めてふたたび歩き出した。

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第46話 / 逸機

カレー屋の前を後にした私たちの後ろから大きな声が聞こえてきた。振り返るとリヤカーを引っ張っているオヤジがこちらに近づいてきた。声は大きいのだが言葉が判然とせず、何を言っているのかさっぱり聞き取れない。その分、気味の悪さが大きくなる。これは変に関わるべきではないと直感した私たちは、そのオヤジから視線をはずすようにして声が通り過ぎるのを待った。まったくこの界隈には一癖も二癖もありそうな人間がごろごろしている。

大声が遠く離れたことを確認して視野を本来の位置に戻すと、一本の脇道が目に止まった。その先にはお好み焼き屋の看板がある。こんな場所にある店ならすいているかもしれない。そんな期待を抱いて私たちはその店へと向かった。私たちの推測はおそらく正しかったのだろう。だが遅すぎた。その店のシャッターは固く閉ざされており、もはや営業していないことは誰の目にも明らかだった。

欲しいものを目の前にしながらそれを手にすることのできないイライラがつのる。もうお好み焼きでなくてもいいや。そんなあきらめにも似た気分で脇道の角をひとつ曲ると、私たちに思わぬところから声がかかった。

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第47話 / 疑問

「ちょっと、おにいちゃん。どう、はいらへん?」。それはのぞき部屋の呼び込みのお兄さんだった。この界隈ではのぞき部屋の看板を手にたたずむ人たちがやたらと目についたが、まさかこんな人通りもろくにない脇道でまでそんな人に遭遇するとは思いもしなかった。それにしてものぞき部屋とは不思議な商売だ。そもそもこんなところにあえて行こうという人がどれほどいるのか疑問だし、それでいてこんなに数があるのはどうしてだろう。

呼び込みのお兄さんの勧誘はさらに続く。「ねえ、どう。安くしとくよ。みんなまとめて千円でいいよ」。まるでバナナの叩き売りか、得体の知れない品物のテレビショッピングだ。こんなことを言われたら、ますますもって怪しさを覚えるわけで、いよいよ足が遠のいてしまう。まったくこんな勧誘に乗ってのぞき部屋に行こうと思う人間の顔を見てみたい。

そんなことを考えながらそのお兄さんの前を通りすぎようとしたとき、後ろからこんな声が聞こえてきた。「ほお、千円か」。振り返ると見慣れた顔がそこにあった。私が見たいと思った人間の顔をこんなに早く、そしてこれほど身近に見つけることができようとは。これには私もただ苦笑するほかなかった。

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第48話 / 遅疑

声の主は、やはりというか、小木曽さんだった。「千円だったら...。みなさんどうします」。どこまで本気で言っているのかはかりかねて返事を躊躇していると、すかさず和泉さんが反応する。「いいですね。行きましょうか、小木曽さん」。こういうときの二人の呼吸は見事なほど合っている。

「俺は行かないよ」。斎藤さんがあきれたように言う。「こんなの千円だってもったいないよ。それより早く飯を食いに行こうよ」。深谷さん、山本君も斎藤さんの言葉をもっともだという顔で聞いている。ところが小木曽さん、和泉さんはそうは思っていないようで、未練がましく呼び込みのお兄さんの方を見る。

「そんなに行きたいんなら行ってくりゃあいいじゃん。俺らは先に飯食って待ってるから」。斎藤さんが突き放すように言う。「あ、いや、別にどうしても行きたいというわけではないんですけどね。じゃあご飯を食べに行きましょうか」。小木曽さんはここで方向転換。和泉さんはまだがんばる。「ええっ、小木曽さん行かないんですか。一緒に行きましょうよ」。

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