第59話 / 回帰

そうこうするうちにカレーも食べ終わり、私たちは自由軒を後にした。自由軒の勘定は店に入る前に言っていたように和泉さんが負担した。さすがにこの日の競馬で唯一プラスを計上した人は太っ腹だ。店を出た頃にはちょうど良い時間になっており、私たちはそのまま駅に向かうことにした。

ところがその途中で再び和泉さんがぴたりと足を止める。おやと思って振り返ると、そこは映画館の前だった。何かおもしろそうな映画でも見つけたのかと思ったのだが、よく見ると和泉さんの視線は映画館そのものではなく、そのそばの小さなショウウィンドウに向けられていた。いったいそこに何があるのだろうか。私たちもそのウィンドウをのぞきこむ。

見るとそこにはあやしげなタイトルのビデオが並んでいた。「和泉、何つまんないもの見てんだよ」。「いやぁ、ちょっと。いいなとおもって」。「ん、どれどれ。ほぉ、これはなかなか」。斎藤さん・和泉さん・小木曽さんの3人のペースは最後まで変わらない。しばらくそこで立ち止まった後、私たちはまた駅の方に歩きだした。

するとまた和泉さんが「ちょっと待っていてください」と言い残し、そばの小さな酒屋に入っていった。今度はいったい何だという感じで5人が顔を見合わせる。そして小木曽さんが言う。「まったく、団体行動ができんのだから」。

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第60話 / 難波駅

しばらく待っているとやがて和泉さんが戻ってきた。「和泉、いったい何しに行ってたんだよ」。斎藤さんが尋ねる。「まあ、いいじゃないですか」。笑って答える和泉さん。「え、人に言えんようなものを買っていたの」とは小木曽さん。「何ですか、人に言えないようなものって。いや、ここでしか売っていないビールでもないかなと思って」。「へぇ、そんなのがあるの」。「いえ、ありませんでした」。

さて、そのあと難波駅に到着した私たちが最初にしたことは、切符が使えるかどうかの確認だった。というのは、私たちが持っている切符は鶴橋から名古屋までの切符だったからだ。行きの段階で名古屋からは鶴橋も難波も同じ値段だということはわかっていたが、はたして難波からすんなり乗せてもらえるかどうかを確かめておかなければならない。もし乗れないとすれば、別に鶴橋までの切符を買わなければならない。

駅員に尋ねたところ、幸い難波から乗っても問題ないとのこと。やれやれという感じで、私たちは車内で飲み食いするものを買いに向かった。駅の中をしばらく歩いた後、蓬莱で餃子に焼売、それに唐揚げなどを買う。ここで代金を払うと、計ったように最初に集めていたお金を使いきってしまった。行き当たり場当たりで行動していたにしては、見事というほかはない。なぜだかわからないが、うれしくなった。

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第61話 / おみやげ

やはり会社の人に何か買って帰らないと具合が悪いだろうということで、私たちは近くの土産物屋をのぞく。しかしこういうところに並ぶ菓子はどこに行ってもかわりばえがしない。まったく同じ物が別の場所で名前を変えて売られていることも少なくない。たとえば広島の新平家物語は福岡では博多の女になり、さらに長崎では長崎物語と名乗っているらしい。ついでにいうと、以前私が幕張への出張の帰りに買ってきた伊豆の何とかという菓子も、それらによく似たものだった。

私たちがのぞいた店もおこしのたぐいのほかは、なぜ大阪名物を名乗るのかよくわからない代物ばかりだったが、そんなたいそうなものを買うこともあるまいということで、数と値段を見比べて、各グループに配るのに具合のよさそうなものを適当に選んだ。ここでメンバーの構成が、SG・OA3人、操業計画2人、管理1人と偏っているため、代金の支払いをどうするかが問題となる。同じグループの参加者がいない私の立場が不利なのは否めず、ここは余計なことを言わないで息をひそめてなりゆきを見つめることにした。幸い今回のメンバーはみんな大人なので、必要な分をまとめて買って、単純に参加者の頭数で割って負担することが決まり、私もやれやれと胸をなでおろすのであった。

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第62話 / 改札

和泉さんを除く5人はプラットフォームへと向かう。ところが先頭を行く斎藤さんが自動改札機に切符を差し込むや、おなじみの警報が鳴り始めた。あの警報音は日常的に耳にするもので、ふだん駅の中で聞こえてきたとしても気にすることはほとんどない。しかしそれは他人事であるからであって、いざ自分たちが通りすぎようとする改札機が鳴り始めると、非常に追いつめられた気持ちになるようだ。そのことは、私たちが切符を確認するよりも前に周囲を見回してしまった行動にも現れていた。

このとき改札機が警報を鳴らしたのは、切符の始発駅が気に入らなかったためらしい。私たちが持っている切符が鶴橋からになっていることは前に言及した通りである。人間がチェックすれば行き先を見て問題なしと判断するところだが、機械の方は文字どおり機械的な判断しかできないわけだ。駅員のいるはしっこの改札で切符を見せるとすんなりと通してくれた。

そのあと私たちは売店で思い思いの飲み物や雑誌などを買い、プラットフォームに降りた。プラットフォームは片面に名古屋への特急が発着し、もう一面に通常の通勤電車が発着する。当然のことながら発着の頻度はまるで違い、こちら側には一向に電車が入ってこないのに対して、反対側にはひっきりなしに電車が到着しては大勢の人を飲み込んでいく。

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第63話 / 餃子

「和泉、どこ行ってたんだよ」。「まあいいじゃないですか」。いつものような会話が展開されるのかと思っていると、名古屋行きの電車が入ってきた。そこで私たちはすぐに電車に乗り込む。今度は行きと違って6人の席をまとめて取れていたので、シートの向きを変えて6人が向い合わせですわる。小木曽さんなどは出発前に、「こういうのってなんかおばさんみたいでいやだな」とか言っていたのだが、やはり最後はこの形に落ち着くようだ。

やがて電車が動き出す。私たちはさっそく買ってきた食べ物を出したのだが、餃子の強いにおいが鼻をつく。パッケージに入っていた時点ですでに気にはなっていたのだが、開けると気になるどころではない。思わず周囲の反応を確認してしまったほどである。もっとも一度広がってしまったにおいをいまさらどうできるわけでもなく、私たちは開き直って餃子を食べはじめた。

私も買ってきたビールを開けて餃子を食べる。するとふたたびからだにかゆみを覚えはじめた。いままでの症状から考えてアルコールが良くないというのはおおよそ見当がつきそうなものだが、まったく懲りないというかやっぱり飲んでしまうのだ。どうもこういう性格だけは死ぬまで直りそうにない。結局、これから名古屋につくまでからだをかきつづけるはめになる。

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第64話 / 解散

電車に揺られてうとうとしていると、あっという間に名古屋についてしまった感じがする。しかし実際には雪のせいで名古屋到着が少し遅れたらしい。そのことを告げるアナウンスを意外と受け止めながら、私たちは電車を降りた。

この2日間の疲れはやはり相当に大きかったのだろう。家路を急ぐ小木曽さんと別れ、5人はまっすぐ名鉄の乗り場に向かった。次の特急の発車までおよそ20分。深谷さんはちょうど頃合いだなという感じで切符売り場の方に歩き出した。斎藤さんと和泉さんがそれにつづいたが、山本君は「自分はこのあとの急行で帰ります」と言い残して、プラットフォームの方に走り出した。そのすばやさは私たちが彼に声をかけることもできなかったほどである。

実は次の特急は内海行きだったため、山本君にとってはその前の河和行きの急行の方が具合が良かった、ということがわかったのは、彼の行動への驚きが少しばかりおさまってからである。かといってとくに気にする風でもなく、私たちはなにごともなかったように座席指定券を購入した。

プラットフォームに降りると、深谷さんが「ちょっとここで待ってて」と言って姿を消した。残された3人は近くのベンチに腰かけて、2日間のできごとをぽつりぽつりと振り返る。そのゆっくりとした会話のペースは、たまった疲れを癒そうとしているかのようであった。

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第65話 / あきらめ

しばらくして深谷さんが戻ってきた。「いやあ、あっさり断られてしまった」。こう苦笑いしながら私たちに言う。「武豊駅まで迎えに来てくれって言ったんだけど、こんな雪の中を運転したくないだって。こんな雪の日だから迎えにきてほしいのになあ」。「うーん、それは残念」。「こんな日じゃタクシーもいないだろうし、まああきらめて歩いて帰りますか」。やがて特急がやってきて、私たちは電車に乗り込んだ。

この時間の特急は、通常の停車駅のほかに、南加木屋や巽ヶ丘、南成岩などにも停車する。「これじゃあ急行と変わらんな。特急料金も少し割り引いてほしいな」とは深谷さんの弁。なるほど感覚的にも、太田川からかなり細切れに止まる感じがする。結局、特急乗車に必要なのが「特急券」ではなく、「座席指定券」であるというのがミソなのだろう。要するにそれはスピードへの対価ではないということだ。

「ああ、やっぱりだめか」。半田を過ぎた頃に斎藤さんが言う。知多半島ならあるいは雪の積もり具合も多少ましではないかと期待していたのだが、今回の雪ばかりはそう都合良くいかないようだ。「しょうがない。雪の中を歩きましょうか」。斎藤さんも覚悟を決めたようだ。そうするうちに武豊に到着。私たちは電車を降りた。

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第66話 / 雪中行

武豊駅前にはやはり車の姿は見えなかった。私たち4人はしかたないという感じでとぼとぼと歩き始めた。雪の降り積った道はかなりすべりやすくなっており、平らなところを歩くことすらおっかない。まして私たちは坂道を登っていかなければ寮や社宅に帰ることができない。4人は一歩一歩踏みしめながら恐る恐る歩いていく。

悪いことは決して単独ではやってこない。私たちを苦しめたのは雪ばかりではなかった。もともとこのあたりは風の強い場所だが、この日の風は一段と強い。50kgにも満たない私などは簡単に吹き飛ばされそうだ。それでも農業試験場のあたりまで登りきると、衣浦寮を照らすオレンジ色の明りが見えてきて、やっと帰ってきたという実感がこみ上げてきた。

こんどはゆっくりと坂道を下り、衣浦寮をめざして歩いていく。相変わらず風は強く、足元はすべりやすい。私たちは登るとき以上に慎重な足取りで坂道を下っていった。「でもこのタイミングで雪がこんなに降るなんてすごい偶然だよね」。「けど逆に言えば、めったにできない体験ができたってことですよね」。「そうそう、この2日間って、すっごい密度濃かったと思う」。寮を目前にして、私たちは2日間のできごとを振り返る。この2日間の体験をこのまま終わらせるのは惜しいという共通の思いがそうさせたのかもしれない。

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最終話 / やがて来る春

一人になった私は社宅の脇の坂道をとぼとぼと登っていく。ここの道に積もった雪は相当踏み固められていて、これまで以上に歩きにくい。私は知多寮に帰るのにこの道を選んでしまったことを後悔した。しかしいまさら引き返すのは面倒だし、こんな坂道を下るのは登る以上におっかない。私は気をとりなおして再び坂道を登りはじめた。

歩いていくうちに、私の頭の中に2日間のできごとがよみがえってくる。6人のやりとりを思い出すたびに笑いがこみ上げてくるのをこらえる。そうしてふと積もった雪に目を転じたとき、思わず口をついて出た歌があった。

いつか雪が降り始めて
紛れそうな言葉
いつも君は笑いながら
どんなことも許すから

やさしすぎて寂しすぎる

いつか雪が降り積もって
今日も町を包む
どんな過ちも静かに
白く埋めてしまうけど

僕が投げた言葉だけは
どうぞまだ消さないで

この2日間のできごとも、やがては記憶の底に埋もれてしまうのだろうか。今度の雪が町中を白く覆ってしまったように。雪はやがて溶けてしまうが、埋もれた記憶は簡単には戻らない。またできごとは思い出せたとしても、はたして体験したときの感動までもがよみがえるだろうか。楽しい思い出を振り返りながらも一抹の寂しさを感じつつ、歌の続きを口ずさむ。

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