第29話 / 再び長い夜

夕食、そしてその後にアルコールが入ってから、私は昨日に続いてからだのかゆみを感じていた。ただ起きているあいだは気にはなるが苦痛というほどではない。問題は寝るときだ。それまで苦痛と思わなかったかゆみも、眠ろうとする場合にはたいへん邪魔になる。すんなり眠りに入れなければ次第に苦痛を覚えることになる。

そんなわけで私は早く眠ろうと、なるべくかゆみを意識せずからだをかかないようにして目を閉じた。ところが隣から気になる音が聞こえてきた。和泉さんのいびきである。気にしないように気にしないようにと思うほど眠りから遠ざかる。意識がどんどんはっきりしてくるようだ。

眠れない時間が長くなるにつれじんましんの症状が苦痛に変わっていく。もはやがまんできなくなったとき、私は上体を起こして全身を激しくかきはじめた。からだをどんなにかいたところでかゆみがおさまるものではないが、そうせずにはおれない。どうせ横になっても眠れるものではないのだから。

こうして私はずいぶん遅くまで眠ることができなかった。が、このとき外がどうなっているかに気づくこともなかった。

続きを読む
第30話 / 先即制人

どうしても寝つけないまま隣を見ると和泉さんが気持ち良さそうに眠っていた。何人かが一緒に寝る場合は、とにかく早く寝た者が勝ちということだ。さすがに斎藤さんはそこを承知していたのだろう。いち早く壁を向いて寝てしまい、和泉さんのいびきにもびくともしない。一方、山本君の方を見ると動きが多い。おそらく熟睡にはいたっていまい。彼も誰かがいびきをかくことは予想していたかもしれないが、まさか夜中にからだをぼりぼりとかきむしる音がすぐ隣から聞こえてこようとは考えていなかったろう。

眠れないまでも少しは横になっていないと次の日がつらくなる。そう思った私はふたたび布団の中に入った。すると入れ替わるように斎藤さんが起き上がり部屋を出ていった。しばらくすると斎藤さんが戻ってきて、また前のようにぐっすりと眠りに入る。こんなに簡単に寝つける斎藤さんがこの日ばかりはうらやましくて仕方がなかった。

このまま朝まで眠れなくても良いから、とりあえず目だけは閉じていよう。そんなあきらめに似た気持ちになったとき、私の体から力が抜けて意識が薄らいでいった。

続きを読む
第31話 / 情報

ようやく眠りについた私をふたたび目覚めさせたのは小木曽さんの声だった。「たいへん、たいへん、大雪だわ」。部屋に入ってくるなりこう言うと、みずから障子を開けて外の風景を私たちに示した。そこで私は布団から起き上がって外を見たが、なるほど見事に雪が積もっている。私と和泉さんがそれに驚くと、小木曽さんはどうだと言わんばかりの勝ち誇った様子を見せた。別に小木曽さんが雪を降らせたわけでも、また雪が降ることを望んでいるわけでもないのだが、他人より早く情報を得るということはそれ自体が喜びとなるのだろうか。その一方で斎藤さんの妙にさめた態度がおもしろい。斎藤さんは夜中に部屋を出たときに雪が降っていたことを知っていたらしい。ここであえて小木曽さんと対照的な行動をとることで、人に先んじていた喜びを味わっているのかもしれない。

続きを読む
第32話 / 隔靴掻痒

おばさんの指示にしたがって私たちは食堂に向かった。おばさんは私たちに「残念な天気になりましたね」と声をかけたが、表情にはその言葉に似つかわしくない笑顔が浮かぶ。なにやら他人の不幸を楽しんでいるかのようにも見える。

食堂に行く途中に電話があるのを見つけ、山本君がJRAのテレホンサービスに電話をかける。しかし電話はつながらなかった。どうもこの状況で考えることは誰もが同じらしい。

食堂では競馬が開催されるかどうかが話題の中心になった。台風が来ている中でも平気でレースを行うJRAも雪にはまるで弱い。最近開催が中止になるケースはほとんどが積雪によるものだ。今回もあまり良い見通しは立たず、会話も沈みがちになる。

そんな中、和泉さんだけは能天気にご飯を食べていた。「みなさん、もう食べられないのですか」と、空になったお櫃を見ながら言う。どうやらご飯をもらいにいく口実がほしいらしい。「そんなに食いたきゃ、おばさんに言ってご飯もらってくりゃいいじゃん」。斎藤さんにそう言われると、それではとばかりに空のお櫃を持ってご飯をもらって来た。

続きを読む
第33話 / 転換

もう一度電話をかけてみると言ってまた山本君が部屋から出ていった。そのあいだ私たちはもう競馬が中止になったときのことを考えはじめていた。「競馬がだめなら競艇に行こうか」。「いや昨日見ることができなかった吉本新喜劇にしよう」。「いやいや昨日見れんかったというならストリップだわ」。「競馬関係だとちゃやまちアプローズという手もありますね」などなど。その切り替えの速さは見事というほかはない。しばらくして山本君が帰ってきて開催延期の決定を伝えたとき、それはまるですでに予期されていたことのようにさえ思えた。

深谷さんが有馬記念の当り馬券の払い戻しをしたいというので、せっかくここまで来たのだし、開催はなくても払い戻しくらいはやっているだろうということで、とりあえず阪神競馬場に向かうことにした。宿を出るときおばさんが「今回は残念でしたけど、また来てくださいね」と言うと、「今度は宝塚歌劇を見に来ますよ」と斎藤さんが答える。するとおばさんはまた大きな声で笑い出した。

私たちは碧山荘を後にして阪急宝塚駅に向かった。今度は今津線で仁川まで電車に乗る。駅の切符売場の前ではJRAの職員が立って、開催が月曜に延期されたことを告げていた。そのすぐそばで私たちが仁川までの料金を確認するのを彼らは怪訝そうな顔で見ていたが、しかし私たちに対して何か言うということもなかった。

続きを読む
第34話 / 仁川

宝塚駅を出た電車は宝塚歌劇場の脇を通って南へと走る。名残惜しそうに歌劇場をながめる斎藤さんの顔が印象的だった。仁川は宝塚から4つめの駅で、途中、逆瀬川など競馬のレース名としてなじみのある地名にも出会い、確実に競馬場に近づいていることを感じる。電車は駅ごとに多くの学生や通勤客を乗せ、仁川に着くころには満員の状態になっていた。こうしてみるとやはり週休2日はありがたい。

仁川駅で降りると、ここでもJRAの職員が開催の延期を告げていた。私たちはかまわず競馬場の方に歩いていった。人のいない競馬場もまたおもしろいかもしれないと思っていたら、意外にも私たちと同じように競馬場に向かう人が結構いるのである。そのためだけでもないだろうが昨夜からの雪が踏み固められ路面が滑りやすくなっている。

困ったことに阪神競馬場に行くには途中階段を降りなければならないところがあり、そこがかなりおっかない。恐る恐る階段をおりると上の方からたどたどしい日本語が聞こえてきた。「キョウハ、ケイバ、アリマセン」。見るとイラン人風情のお兄さんがこちらを見ていた。すると何を思ったか斎藤さん、「オーケー、オーケー。アイノウ、アイノウ (OK, OK. I know, I know)」と相手に負けないくらい発音も文法も怪しげな英語で答えた。あっけにとられる相手をよそに、私たちはそのまま競馬場へと歩いていった。

続きを読む
第35話 / 写真

阪神競馬場は数年前に大規模な改装があり、関西では最もきれいな競馬場だと言ってよいだろう。中京競馬場と同じように入場門は2階にあるが、今回は払い戻しが目的なので1階の方に向かった。ところが肝心の払い戻し場には人気がまったくない。どうしたことかと近くにいた警備員とおぼしき人に尋ねてみると、払い戻しは行うが10時からとのこと。時計を見るとまだ1時間近くある。近くに時間をつぶせるようなところも見あたらず、結局、払い戻しは大阪のWINSで行うことにした。

とはいえ、このまま帰るのもつまらないので、ここで記念写真を撮ることにした。阪神競馬場を背にひとりずつがカメラの前に立つ。ただそれだけのことなのだが、実際にやってみるとかなり気恥ずかしい。とくに周りに知らない人の存在を認めると妙に照れくさいのだ。もっともこれは人によって感じ方が違うかもしれない。私は写真が嫌いというわけではないが、ものごとを写真に残そうという意志が極めて希薄で、写真を撮ることにも写真に撮られることにも積極的ではない。その辺り、カメラを持ってきた小木曽さんや山本君にはきっとまた違った感じ方があるのだろう。

続きを読む
第36話 / 阪急電車

阪急仁川駅から今度は西宮に向かう。仁川についた電車はさすがに満員でかなり窮屈な思いを強いられる。考えてみれば知多に来て以来、満員の電車に乗るなどということは数えるほどしかなく、これも久しぶりに味わう新鮮な体験と言えば言える。とはいえやはり窮屈なものは窮屈だ。仁川から西宮北口までのわずか3区間がやたらと長く感じられた。ようやく西宮北口について電車を降りると、冬の冷たい空気がとてもさわやかだ。慣れない混雑で乱れた呼吸を整えてから、私たちは梅田行きの電車に乗り換えるため神戸線のプラットフォームに向かった。

それにしても宝塚駅といい、この西宮北口駅といい、阪急の駅はどこもきれいだ。たまたま私たちが立ち寄ったところがそうだっただけかもしれないが、名鉄を代表する新名古屋駅と比べてもずいぶん雰囲気が違う。料金とともに、名古屋では越えることのできない壁のようなものを感じる。やはりこれもあるがままに受け入れなければならないのだろうか。

続きを読む
第37話 / 別世界

私たちは特急に乗り換えて、電車の中で大阪に着いてから何をするかを話し合った。そこで私はかねてより希望を出していたちゃやまちアプローズに行くことをあらためて主張した。もともとの目的がそういうツアーなのだから競馬に関係のあるところに行こうということでみなが合意し、そして阪急梅田駅から近いこともあって、まずはちゃやまちアプローズを目指すことになった。

ちゃやまちアプローズとはJRAの広報センターで、阪急梅田駅から5分ばかり歩いたアプローズタワーの10階にある。梅田駅に到着した私たちは駅の案内板でアプローズタワーの位置を確認した。どうやら阪急ホテルに隣接しているらしく、とりあえずそちらを目標にしてアプローズタワーを捜そうと歩き出した。ところが阪急ホテルはわけなく見つかったが、肝心のアプローズタワーらしきものが見あたらない。外は寒いしせっかく来たのだからというわけのわからない理由に、お互いがなぜか納得して目の前の阪急ホテルの中に入っていった。

続きを読む
第38話 / アプローズタワー

私たちはふたたび外に出てアプローズタワーを捜した。しかしさきほどまでいた阪急ホテルのまわりにはそれらしいものが見あたらず、もう少し歩いてみようかと話し合っていた。そのとき私たちが出てきた入口から少し離れた別の入口に目をやると、そこに「Apprause Tower」と書かれているではないか。なんのことはない、阪急ホテルとアプローズタワーは中が仕切られているだけで、外見上はまったく同一の建物だったのである。

私たちは「Apprause Tower」とかかれた入口から建物の中に入ったが、居心地の悪さはやはり阪急ホテルと変わらない。エレベータのところにある案内板で10階に「JRA」の文字を見つけると、さっさとエレベータに乗り込んで10階へとのぼっていった。エレベータを降りてすぐ右手に目的のJRA広報センターがあった。

名前こそ大仰だが、スペースはさほど広くない。競馬関係の書物や雑誌、共同馬主クラブのパンフレットなどがおいてあり、それを自由に見ることができる。中の雰囲気も図書館の閲覧室に近い。その一角にぬいぐるみやポスターなどの競馬グッズを並べた陳列ケースがあり、それらを販売していることがわかる。また別の一角には文字放送受信用のモニタがあった。いつもならレースの情報が流されているのだろう。

続きを読む