いつか雪が降りはじめて

むか~し、同じ職場の人間6人が、阪神競馬場まで行きながら競馬を見れなかったお話です(^^;。PDF版で読むこともできます。

プロローグ / After Dark

私の行先表示板に馬券とともに訳のわからない文言を記した紙が挟まっていることをご存じの方もいるだろう。あれは私の身の回りの出来事や気持ちを表す言葉を書き記しているもので、好きな歌の詞の一節を使うことが多い。ところで先週から私の机にMacintoshPower Bookがしばらく置かれることになった。そこでさっそくAfter Darkで行先表示板と同様の言葉を表示するようにしておいた。使ったのは山本正之さんの歌の一節「馬券柴犬ワンと吠えろ!」。特に深い意味があるわけではない。ただ週末に競馬に行くから、それにひっかかりそうな歌詞を単純に選んだだけである。

出発の前日になって、週末の天気が悪くなるという話が聞こえてきた。傘を持って行かないと困るかもしれないと思い、忘れないようにAfterDarkのメッセージを山本正之さんの別の歌の一節「あしたは雨が降るから傘を用意しましょう」に変えた。ところがこの一節に続くフレーズが実は「あさっては雪が降るから…」。思えばこれが今回のツアーの行く末を暗示していたのかもしれない。しかしこの段階では雨が降ると嫌だな、という程度にしか考えていなかった。むしろそれとは別の不安が私の体の中で現実のものとなりつつあり、そのときの私にはそちらの方がずっと大きな問題であった。

第1話 / 長い夜

出発の前日、私はちょっとした酒席に顔を出すことになっていた。もともとお酒は好きな方だが、少し前に酔って記憶をなくしたこと、前の週に生牡蛎にあたって体調を悪くしたことがあって、この日はかなり抑え気味に飲んだつもりだった。ところが酔いの回りが妙に速い。ここで無理は禁物と考えて、9時には皆と別れて寮に戻った。

寮に帰った私は、阪神に向かう準備をして床に入った。やがて眠りについたものの、再び目がさめるまで時間はかからなかった。からだじゅうがかゆくて仕方がなかったからだ。見ると全身にじんましんが出ている。こういうときはからだをかいては良くないと聞いているが、とてもがまんできるものではない。ひとしきりからだをかいては横になり、がまんできなくなるとまた起き上がることを繰り返していた。ようやく浅い眠りに入ったのは朝が近づいてからのことだった。そして私はその眠りから予期せぬ形で目覚めることになる。

第2話 / モーニングコール

トゥルルルル。一時の眠りを覚ましたのは電話の音だった。3つ目のベルが鳴り終わったところで、私は布団から手を伸ばして受話器を取った。「はい、東です」。「もしもし…」。電話の声は和泉さんだった。このとき、ひょっとすると和泉さんはツアーに参加できなくなったと言うのではないか、という嫌な予感が頭をよぎった。その予感は半ば当たり、半ばはずれた。和泉さんは予定の電車に乗ることができないので、一人で遅れて行くことを私に告げて電話を切った。

このあと顔を洗って服を着替えると、時計はすでに8時25分を回っていた。深谷さんのところの車が知多寮に8時30分に来てくれることになっていたので、あわててバッグを担いで階段を駆け降りて玄関に向かった。するとすでに車が待っていた。急いで乗り込むと、今度は衣浦寮で斉藤さんを乗せ、名鉄の武豊駅へと向かった。こうしてメンバーの予定や自分のからだに不安を抱えながらもツアーは動き出したのである。

第3話 / 名鉄特急

武豊駅に着いた私たちは、8時54分発の特急に乗って名古屋に向かった。私が知多に来た頃は座席指定券の必要な特急を利用することはほとんどなかったが、最近はむしろ急行に乗る機会の方が少ない。深谷さんはそれは年をとった証拠だという。深谷さん自身、今は特急が出た直後であっても30分待って次の特急に乗るそうだ。そう考えるようになる過程はやはり大きな人生の転機である、と深谷さんはしみじみ語る。

私たちが乗った列車は、私がふだんからよく利用しているものだ。これに乗ると9時30分頃にWINSに着く。馬券の発売は9時からだが、発売開始直後は結構混雑する。それが一段落するのがちょうど9時30分なのである。

ただ私はこの列車に武豊ではなく南成岩から乗ることが多い。というのも金山までの料金が両者のあいだで60円違うからである。310円余分に払って特急に乗る者が60円を惜しむというのも妙な話かもしれないが、私の感覚だとこの60円の方がずっともったいないと感じるのである。そんなことを考えているあいだに、私たちを乗せた列車は名古屋に着いてしまった。

第4話 / 集合

名古屋に着いた私たちはすぐに近鉄の方へと向かった。最初は改札前で待ち合わせの予定であったが、かなり混雑していたし、車内で飲み食いするものを早く買っておきたいということで、早々とプラットフォームの方へ入っていった。

とりあえず売店でちくわのたぐいとゆで卵、それにおにぎりとビールを買う。そして小木曽さんか山本君は来ていないかと辺りを見回していると、深谷さんが小木曽さんらしい人を見つけたという。しかしよく見ると、それはただ頭の薄い知らないおじさんだった。今度はその近くの毛糸の帽子をかぶり、チェック柄のバッグをさげた、東北辺りからの出稼ぎ労働者風の人が目に止まった。名古屋にもそういう人がたくさん出てきているのかなと考えていると、その人がなぜかこちらに近づいてきた。一体何事だろうかと思って見てみると、それがほかならぬ小木曽さんだった。

小木曽さんと合流した私たちは、売店でコーヒーにお茶、そしてカメラを買い足して電車へと乗り込んだ。やがて山本君もやって来て、一応のメンバーがそろった。あとは電車が動きだすのを待つばかりとなった。

第5話 / 闖入者

名古屋から大阪へは近鉄アーバンライナーを利用する。切符の方は一週間前に購入しているのだが、6人の席をまとめてとることができず、3人・3人に分かれてすわることになった。深谷さん、小木曽さん、そして私が車両の最前列にすわった。ここは人が通るたびに通路のドアが開くのでどうも落ち着かない。まあ前が壁になっているから、2時間静かに面壁していれば達磨さんのように何か悟れるかもしれない、などとくだらないことを考えていたら、斎藤さんがやってきて一人に2本ずつのビールを置いていった。やはり私のような煩悩多き凡人に悟りは無理のようで、すぐにビールを飲み始めてしまった。

ビールが行きわたると、今度は私が食べ物を車両の中ほどにすわる斎藤さんと山本君に渡しに行った。すると本来和泉さんがすわるはずだった斎藤さんと山本君のあいだの席に見知らぬ男がすわり、斎藤さんと何やら問答している。どうやらその男は指定券なしで乗り込んできてたまたま空いていた和泉さんの席にすわろうとしているらしい。そこで隣にいた斎藤さんにその席にすわってよいか尋ねている様子なのだが、斎藤さんにしてみればそんなこと聞かれても困るといった具合でらちがあきそうにない。とりあえず私は二人に食べ物を配ってその場を離れた。

あとで聞くと、結局その男の無理が通ったらしい。別にこのことですわれない人が出たわけではないが、その強引さに多少の後味の悪さを感じつつ、電車は大阪へと向うのであった。

第6話 / 赤い顔

自分の席にもどった私は、ちくわをかじり、ビールを飲みながら、小木曽さん・深谷さんと雑談を交わしていた。ところが前日同様、アルコールのまわりが馬鹿に早い。ビールを1本空けたところで顔がずいぶん赤くなっているであろうことが自分でもわかる。深谷さんには一人で飲んだような顔をしていると笑われた。もともとアルコールが入ればすぐ顔に出る方なのだが、それでもこの日の変わりようは尋常ではなかった。昨夜からのじんましんの影響だろうか。

顔に出るというと、私は感情が表に出やすいことが悩みの一つとなっている。自分自身でも些細なこととわかっていることにすら、表情は過剰に反応して顔が赤くなったり青くなったり、自らの意志ではどうすることもできない。いつもの私のしまりのない笑い顔は、おそらくそうした表情の変化を隠そうとしてできあがったものだと思うのだが、どうも役に立っているとはいえないようだ。

それはともかくとして、昼間から顔を赤くして街中を歩くのも格好の良いものではない。大阪に着くまで何とか元にもどってほしいと思うのだが、こういうときほど時間の経過が早く感じる。やがて難波到着を告げるアナウンスがあり、ほどなく電車は終点の難波駅プラットフォームへと滑り込んだ。

第7話 / 落胆

私たちが大阪に着いたのはちょうどお昼過ぎだった。すでに電車の中で、大阪に着いたらそのあたりで有名らしい金龍ラーメンか自由軒のカレーを食べようと決めていたので、駅を出るとさっそくそれらの店があるという方向に歩き始めた。もっとも難波周辺をよく知っている者がいるわけではなく、多少の心当たりがあるという斎藤さんと山本君が大体の方角に残りの3人を先導するような形で進んでいった。こんないい加減な捜し方でわかるのだろうかという不安とは裏腹に、いともあっさり金龍ラーメンの看板が見つかった。

そこでお昼はラーメンの方を食べようということになり、店の方に向かった。案の定というか何というか小汚い店であったが、客はそこそこ入っている。かといって列を作って待たなければならないほどでもなかったので、5人はそのまま店の中に入っていった。店内はカウンターがあるだけで、客はそこに出されたラーメンを立って食べる。カウンターにはキムチが山のように置いてあって、それはいくら取っても良いらしい。

その界隈で有名だというラーメンの味はどんなものかと期待しながら待っていると、ほどなく私の目の前にもラーメンが置かれた。わくわくする気持ちをおさえながら一口食べたのだが、なんとも拍子抜けする味だった。特においしいというわけでもなく、またこれという特徴があるわけでもない平凡なラーメンなのである。回りを見てみるとどうやらみんな同じことを思っているらしい。私たちは黙々とラーメンを食べ、そそくさと店を出た。

そして誰からともなく私が感じたのと同じ落胆の思いをお互いに語り合った。一体なにゆえにこの程度のラーメンが有名になったのか。店を出たときに私たちが抱いた疑問は、その周辺を歩くうちにやがて解けていくことになる。

第8話 / 質と量

昼食にラーメンを選択したことに幾ばくかの後悔の念を抱きながら、私たちは道頓堀周辺を歩くことにした。話に聞いていた「かに道楽」のかにや「くいだおれ」の人形などをながめてまわったわけだが、そのさまは周りから見ればおのぼりさんのようであったろう。とくに記念写真をとるためにカメラを構える小木曽さんの姿は、あまりにもはまりすぎていてほほえましくさえあった。

さてそうやって歩いていくうちにやたらと目についたのが「金龍ラーメン」の看板である。ひとつ角を曲がるたびにその看板が目に止まるといった具合いで、そこここに氾濫している状態なのだ。これだけあちこちに店を出しているのだから、私たちがあっけないほど簡単に金龍ラーメンの一店にたどりつけたのも無理はない。私たちが食べたところ以外の「金龍ラーメン」を最初に見つけたとき、ひょっとするとこちらが本店で我々が食べたのは味の落ちる支店だったのではないか、いやいや実は「金龍ラーメン」に見せかけた「全龍ラーメン」とかいうまがいものだったのかもしれない、などと話していたが、そんな冗談を言っていられるうちは良かった。次から次へと出てくる「金龍ラーメン」の文字を見るたびに興がさめていくのを私たちはどうすることもできなかった。

結局、金龍ラーメンが有名なのは、その味ではなく店舗の数ゆえなのだろう。売り物の質よりも店舗展開などのマーケティングの優劣が成否を分けるという現代資本主義社会のひずみを身をもって感じたという意味では、貴重な体験だったかもしれない。